2014年2月19日 (水)

遊動と定住

1.二つの難題

 人間にとって最大の難題は、他者と死の二つであろうと、私は考えています。この二つの難題に自分なりの解答を見つけていくのが人生なのかなとも思います。他者をどう引き受けるか、そして死をどう引き受けるか、という難題です。他者といかにして共存していくのかという課題ですし、親の死や自分の死をいかにして引き受けていくのかという課題です。なぜそういう課題が生まれてくるのか? それはよくわかりませんが、この世に生を受けたからにはそれらの課題がついてまわることは確かのようです。そういうものなのだ、と自分に言いきかせるしかないのだ、と。

2.遊動生活から定住生活へ

 柄谷行人の『世界史の構造』(岩波書店、2010)から思いがけないヒントを得ました。柄谷によれば、人類はもともと定住生活を営んでいたわけではないらしいのです。もともとは定住することなく、遊動生活を送っていたといいます。「氏族社会以前にあった遊動的なバンド社会」というものが想定できるようで、「彼らが定住を嫌ったのは、それがさまざまな困難をもたらすからだ」といいます。では、「困難」とは何か?

 《第一に、バンドの内と外における対人的葛藤や対立である。遊動的生活の場合、究極的に人々は移動すればよい。(中略)定住すれば、人口増大とともに増える葛藤や対立を何とか処理しなければならない。(中略)第二に、対人的な葛藤はたんに生きている者との間にあるだけではない。定住は、死者の処理を困難にする。アニミズムでは一般に、死者は生者を恨む、と考えられる。遊動生活の場合、死者を埋葬して立ち去ればよかった。しかし、定住すると、死者の傍で、共存しなければならない。それが死者への観念、および死の観念そのものを変える。》(p.63-

 まさにここには私が、心理臨床の根本的課題、そして人生の最大の難題と考えてきた二つの事柄がみごとに提示されています。他者と死という二つの難題は、人類が、遊動生活を手放し、定住生活をはじめたがゆえに発生してきたらしいということです。いいかえるなら、他者と死は、つねに私たちの手にあまる難題らしいということです。だからこそ、いわば「自然に」引きうけられるたぐいの課題ではなく、それなりの覚悟をもって、あるいは自分の人生を賭けて、うんと頑張らなければ解答できない難題だということです。かりに「他者との共存はこうして可能だ」と答えたところで、つぎの瞬間には「ええ~ッ、こんなに訳のわからない人間がいるの?!」と、あらたな〈他者〉が登場することになるからです。

3.ちょっと連想が飛躍して・・・

 現在私は個人開業でカウンセリング業を営んでいますが、カウンセリング業よりも、あちこちで講師業をするほうが性(しょう)にあっているようです。かつて病院で雇われているころは、なんとなく「定住的」だったという気がしますが、個人開業をしてからは「遊動的」になったらしいという連想がわいてきました。逆にいえば、定住的な対人的葛藤や対立から身を退いて生き延びてきたらしいということです。柄谷のいわんとするところとはかなりずれてしまったかとは思いますが、連想としては気に入っています。

 さらには「フーテンの寅さん」にまで連想が飛びます。定住を嫌って、もしくは定住ができずに、日本中を遊動していた寅さんは、高度成長期に定住生活を選んだほとんどの日本人にとってひそかな憧れでした。でも、遊動生活を選ぶことで寅さんが失ったものもあります。それは、安定して暮らせるまさに定住地であり、定職であり、家族です。要するに「所帯持ち」でない生き方を寅さんは選びとったということです。遊動を手放すことで得られた生き方もあれば、遊動を手放さないことで得られる生き方もあるということです。

(この文章は、以前、専門家向けとして公開していたものを、転載したものです。2014年2月19日)

2012年10月 1日 (月)

暴力と甘え

 (1) 「暴力」ときくと、まずは、なぐる・ける、といったものが思い浮かぶかと思いますが、なぐる・けるは暴力の手段です。では、暴力の目的は何でしょうか? 暴力の目的は、「痛い目にあいたくなかったら、黙っておれのいうことをきけ!」と、相手にこちらの言い分を認めさせることです。ひとことでいうと、「承認の一方的強要」です。ですから、この目的を達成するためなら、別になぐったりけったりしなくてもよくて、にらみをきかせるだけでもいいですし、咳払いひとつでも十分な効果がありえます。

 (2) 次に「甘え」です。わかりやすい例として、生まれてまもない赤ん坊をとりあげてみましょう。赤ん坊は、夜中3~4時間おきに起きては、母親に「おっぱいちょうだい!」「オムツ替えてちょうだい!」と、いわば激しく泣いて訴えます。赤ん坊の訴えは、ともかく一方的で、母親が眠かろうが、熱でふらふらしていようが、そんなことお構いなしです。ここにもまた「承認の一方的強要」が潜んでいます。

 (3) 一見すると、暴力と甘えはまるで違うものですが、その中身、あるいは本質は同じものです。となると、赤ん坊時代、すなわち人生の最初期は、暴力に満ち満ちた時期、すなわち病的な時期だ、ということです。

※ つづきはまた後日に。

2011年10月23日 (日)

真夜中の公園で

真夜中、のぞみちゃんはふと目を覚ましました。だれかが「のぞみちゃん、のぞみちゃん」と、呼ぶ声がしたからです。

「のぞみちゃんを呼んだのは、だーれ?」と、のぞみちゃんは思いました。

布団を見ると、ママも、パパも、ひかりちゃんも、ぐっすり眠っています。いったいだれが、のぞみちゃんの名を呼んだのでしょう。

ガラス戸ごしに庭を見ると、暗がりのなかに子どものネコバスがいます。ネコバスがのぞみちゃんのほうを向くと、目がキラリと光りました。

「あっ、ネコバスだ!」

するとネコバスが、やさしくのぞみちゃんに話しかけてきました。

「のぞみちゃん、庭に出ておいで。これから一緒にお出かけしよう」

のぞみちゃんはとてもうれしくなりました。

「そうだ。おねーちゃんも一緒にさそってお出かけしよう!」

のぞみちゃんは、ママとパパを起こさないよう、ひかりちゃんをそっと起こしました。

「おねーちゃん、おねーちゃん。お庭にネコバスが来てるよ」

ひかりちゃんは、眠い目をこすりながら起き上がり、庭をのぞいてみました。

「あっ、ほんとにネコバスが来てる!」

のぞみちゃんは、玄関から、ひかりちゃんとのぞみちゃんのくつを、庭に持って来ました。

ひかりちゃんと、のぞみちゃんは、パジャマのまま、ネコバスに乗り込みました。

ネコバスの座席はふわふわのクッションです。すわると、とても気持ちいいのです。

ふたりを乗せたネコバスは、空へ飛び上がりました。

ネコバスは、のぞみちゃんの通っている保育園の上をグルッと回って飛び越え、つぎにひかりちゃんの通っている小学校の上もグルッと飛び越えて行きました。

ネコバスがやってきたのは、いつも二人が遊んでいる公園でした。

公園の真ん中に、大きな松の木が立っています。ネコバスは松の木の枝に降り立ち、ひかりちゃんとのぞみちゃんはネコバスと並んで、枝に腰かけます。

公園の広場に、どこからやって来たのか、動物がたくさん集まっています。のぞみちゃんの好きなゾウさんもいます。キリンさんもいます。あれぇ、タヌキさんもいます。アライグマもいるし、カピバラも、オウムもいます。どうやら動物たちはみんな、のぞみちゃんの大好きな市原ゾウの国からやって来たようです。

よく見ると、動物たちの真ん中に、ママとパパがいます。ママとパパはベンチに並んで腰かけています。

のぞみちゃんは「ママーッ!」と、ママに呼びかけようとして、ハッと気がつきました。

ママのひざにだれかいます。そう、家族のひとりである犬のギズタくんです。ギズタくんはママのひざの上で、ぐったりしています。

「ハッ、ハッ、ハッ、ハッ、ハッ、……」と、苦しそうな息をしています。

ゾウさんが「パオーン」と鳴きました。ゾウさんは何かお話をしているようなのですが、ひかりちゃんにも、のぞみちゃんにも、ゾウさんの言っていることがわかりません。

すると、ネコバスがふたりに、魔法をかけてくれました。おかげで、ふたりは動物たちの言葉がわかるようになりました。

ネコバスが「ゾウさんはね、クイズを出します、って言ったんだけど、わかった?」と、ふたりにたずねました。

のぞみちゃんは「うん、わかった!」と答えます。「でも、なんのクイズなの?」

ゾウさんがもういちど「パオーン、パオーン」と鳴きました。

のぞみちゃんは、ゾウさんがいっている言葉がわかりました。ゾウさんは「のぞみちゃんの大好きな動物はなんでしょう?」と、クイズを出したのです。

ママのひざでぐったりしているギズタくんが、苦しそうな息をしながら答えます。

「ゾ、ウ、さ、ん、……」

すると、キリンさんが答えました。

「いいえ、ちがいます。正解は、ギズタくんで~す」

動物たちみんなが、ギズタくんのために手をたたきます。

ギズタくんはホッとしたように、目を閉じます。

今度はキリンさんがクイズを出します。

「暗い夜でも、キラキラ光っているものはなあに?」

目を閉じたまま、ギズタくんが答えます。

「そ、ら、の……、お、ほ、し、さ、ま……」

ギズタくんの声はとても小さいので、みんなはいっしょうけんめい耳を澄まします。

こんどはゾウさんが答えます。

「いいえ、ちがいます。正解は、ギズタくんのお目々で~す。パオーン」

ママのひざにいるギズタくんの息がとても弱くなりました。

最後にママがクイズを出します。

「まだ、ひかりちゃんも、のぞみちゃんも、パパもいなくて、ひとりぼっちだったママをずっと支えてくれたのはだれでしょう?」

もうギズタくんは息もせず、ピクリとも動きません。

ママが自分でクイズに答えます。

「正解は……、ギズタくんです。……ギズタくん、ありがとう……」

ママは泣いていました。パパはママの肩をやさしく抱いてあげました。

動物たちは、みんないっせいに拍手しました。

松の木の枝で、のぞみちゃんは泣いていました。ひかりちゃんは「ギズーッ、ギズーッ」と、ギズタくんの名を呼び続けました。

のぞみちゃんが「ママ、かわいそう」というと、ひかりちゃんは「そうだね」とこたえました。

ネコバスがいいました。「もう、帰ろうか?」

ひかりちゃんも、のぞみちゃんも、「うん」と答えました。

ふたりはネコバスに乗って、おうちにむかいました。ネコバスは、もういちど小学校の上をとびこえ、保育園の上をとびこえ、おうちにかえりつきました。

つぎの日の朝、ひかりちゃんが学校に出かけたあと、ギズタくんは亡くなりました。

ママが、のぞみちゃんに話しました。

「ギズタくんは、みんなにサヨナラして、ひとりで遠くに行ってしまったのよ」

ママの目から、なみだが静かに流れおちました。

のぞみちゃんは、ママにお話ししました。きのうの夜中、小さなネコバスに乗って、公園に行ったこと、そこには動物がたくさんいたこと、ママもパパもいて、みんなで、ギズタくんとお別れの会をしたこと、……。

ママはのぞみちゃんの話に、ひとつひとつうなづきながら聞いていました。

夕方、ひかりちゃんと、のぞみちゃんと、ママの、三人で、ギズタくんを葬儀場に連れて行きました。ギズタくんは骨になって、おうちに帰ってきました。

ママは来年の9月、ギズタくんの誕生日に、ギズタくんの骨を庭に埋めてあげるつもりです。

※これは、岩瀬成子『夜くる鳥』(PHP研究所、1997)からお借りして書いたものです。ホームページ上ながら原著者岩瀬さんに感謝申し上げます。(光元和憲)

Bさんの三輪車

Bさん(30歳代男性)は会社で営業を担当していましたが、うつ病の診断で、休職に入りました。休職に入った2週間目、わたしのもとにカウンセリングを求めてやってきました。

職場では上司(女性)から叱られるのが怖いと語ります。子供時代、父親から暴力をふるわれた過去がよみがえってしまうからといいます。Bさんの話から推察するに、おそらく父親はアルコール依存症であったと思われます。

Bさんが子供のころ両親は離婚し、現在もBさんは母と二人暮らしです。

ある日のカウンセリングで、Bさんは、自分は感情表現することを敬遠していると語りました。夕食時、食卓で母親と食事をしていても、ほとんど会話らしい会話がなく、テレビを観ていておもしろいなと思っても、母親に言わないのだそうです。泣ける映画を観ても泣かずにこらえる。自分の感情をさらけ出すことに恥かしい気持ちや照れくさい気持ちがある、というのはまだ理解できますが、感情をさらけ出すことに恐怖感があるとまで言います。恐怖感だけでなく、表現すると負けるとも語ります。これはいったいどういうわけでしょうか?

職場復帰が近づいてきた時期、わたしはBさんに仕事について尋ねてみました。今の仕事はやりたい仕事ではなく、仕方なくやっている。かといって、そもそもやりたい仕事があったというわけでもない、とのことでした。

数ヵ月の休職期間を終え、Bさんは職場復帰しました。上司との関係は変わりませんが、どうにか出勤は続いています。

最近、食卓で母親とよくしゃべるようになったと話してくれました。ニュースのこととか意識してしゃべると、あとはしゃべり続けられるのだそうです。

ある日の夕食時、母親とこんなやりとりをしたそうです。

「本当の自分というものがない感じが、これまでずっとしていた。そのことが、最近やっとわかってきた。無条件に親から受け容れられることがなかったからだと思う」と、Bさん。

すると母親がこう返してくれました。「もうちょっとほめて育ててあげればよかったね」。

Bさんは少し反論しました。「ほめるというより、ありのままでよしとする感じがほしかった」と。

Bさんの言葉を受けて、母親はこんなエピソードを語ってくれました。

――あなたが3~4歳のころ、あなたがひとりで、三輪車で遊んでいるのをわたしは三階から見ていた。あなたは三輪車で、何度も何度も水たまりに突っ込んでいた。一階の奥さんが、三階にいるわたしに「汚れちゃうけど、いいの?」と声をかけてくれたのね。でもわたしは「うん、いいのよ」とこたえ、そのまま見ていたの……。

ありのままの自分がこのとき受け容れられていたんだと、Bさんは何か満ち足りたように語りました。「自分ではおぼえてはいないのだけど、幼いころこういう体験が足りなかったんだろうな」と。

職場復帰したBさんは、週末、自転車に乗る楽しみを見つけ、これが励みで、週5日の仕事はどうにか続いています。ある日の休日、筑波山まで往復120キロ、自転車で走ってきたと言います。別に筑波山に行ったからといって何かとりたてて目的があるわけではない。ただたんに走ることだけが目的で、と言います。

わたしはふと思いました。――走りつづけることだけが目的で自転車で走っている今のBさんは、泥水につっこむだけの目的で三輪車で無邪気に遊んでいた幼いころのBさんとつながり直そうとしているかのようだな、と。

(※ Bさんの了解を得て、ここに紹介させていただきました。)

2011年5月31日 (火)

どうか赤ん坊を激しく揺さぶらないでください――乳幼児揺さぶられ症候群

2009920日、NPO法人虐待から子どもを守る支援ネットワークちば主催の研修会で、山田不二子先生(東京医科歯科大)を講師にお招きし、「性的虐待」と「乳幼児揺さぶられ症候群」に関するお話をうかがいました。文字通り蒙を啓かれた思いでしたが、後者「乳幼児揺さぶられ症候群」はとりわけ心に残りました。

「乳幼児揺さぶられ症候群」は、“Shaken Baby Syndrome”(SBS)の日本語訳ですが、現在ではより広い意味で、「虐待による頭部外傷」“Abused Head Trauma(AHT)と呼ばれることもあるとのことです。

「揺さぶる」というのは、赤ん坊の胸のあたりを両手で持ち、前後に激しく揺さぶることを言います。1秒間に2~4回揺さぶると言いますから、かなりの激しさです。生後2ヵ月あたりから被害が始まることが多いとのことですので、まだ首のすわっていない赤ん坊のぐらぐらする頭を揺さぶることになります。

山田先生は、調理に使うボールにたとえて説明されました。ボールのなかに、かたまりかけたゼリーを入れたとします。ゼリー()はボール(頭蓋骨)に付着していない状態です。そのボールを、前後左右に激しく揺さぶると、中のゼリーはグチャグチャに砕けてしまいます。

脳と頭蓋骨との激しい衝突が繰り返されると、脳のあちこちに出血が見られ、脳神経細胞の軸索がずたずたになり、かつ左脳と右脳をつなぐ脳梁も切れてしまいます。死亡した赤ん坊の頭蓋を開くと、脳はまさにグシャッとつぶれてしまう例もあるとのことです。

眼球にも被害が現われます。眼球内の硝子体も柔らかな物質でできており、揺さぶられに伴い、視神経が硝子体から剥離するため、球状の硝子体の表面に多数の出血が見られます。揺さぶられた後に生き延びた子供のなかには生涯盲となってしまう者もいるそうです。

アメリカで制作された啓発用のDVDも衝撃的でしたが、持参された人形を使って山田先生が揺さぶりを再現して見せて下さったのはそれ以上に衝撃的でした。

赤ん坊を揺さぶっている大人は、顔色の急変や嘔吐など子供の反応に驚いて、子供をパッと手放してしまい、そのまま床に落下させてしまうことがあるとのことです。現に研究者の中には、揺さぶりが赤ん坊にとって致命傷になるのは、この床への落下にあるのではないかと考える者もいるそうです。

人形を使った山田先生の揺さぶりの再現は、1秒間に2~4回という動きの激しさも衝撃的でしたが、「あっ」と思った瞬間に手放された人形が落下し、床とぶつかるときの「ドスッ」という音はもっと衝撃的でした。瞬間、わたしの内的な体験は、目の前で本物の赤ん坊が床に落下した音でした。

わたしは乳幼児揺さぶられ症候群は、まだ首のすわっていない子供、すなわち生後3~4ヵ月未満の赤ん坊が被害に会う事例を指すものと思い込んでいました。この点に関しても蒙でした。被害に会う子供の年齢は幅広く、生後2ヵ月の赤ん坊もいれば、首のすわった後の子供もいて、乳幼児はもちろん小学生もいれば、もっと年齢の高い子供も被害に会うことがあるそうです。

赤ん坊の激しい泣きのピークは、生後2ヵ月目にあるとのことです。ところが実際の乳幼児揺さぶられ症候群被害は生後3ヵ月にピークがあります。赤ん坊の激しい泣きが、しばしば乳幼児揺さぶられ症候群の発生とつながっているとされていることからすると、そこにはタイムラグ(時間差)があります。このタイムラグはなぜ起こるのか?

生後2ヵ月の頃、親や、子供をケアする大人たち(保育士やベビーシッター)は、乳児の激しい泣きに苦しめられます。このとき泣きに苦しめられた大人が、怒りにまかせて乳児を揺さぶります。乳児は激しい揺さぶりに脳内出血もふくめ、多大な損傷をこうむりながら、泣きやみます。大人はいわばこれに味をしめ、乳児が泣くと揺さぶるのを繰り返します。そして生後3ヵ月の或る日、何度目かの揺さぶられの果て、乳児は顔面蒼白、嘔吐等を伴いながらぐったりとします。救急車で運ばれた時にはすでに手遅れとなっています。どうやらこのようにしてタイムラグが生まれるようです。

赤ん坊の激しい泣きは、なぜ生後2ヵ月目にピークがあるのか? その原因は今なお不明とのことです。この泣きは、そもそも生得的なものなのか、それとも生後の、赤ん坊の生活環境に起因するものなのか?

2ヵ月早産の赤ん坊の場合、泣きのピークは、生後4ヵ月目にあるかというと、そうではなく、やはり生後2ヵ月目にあるとのことです。となると、生後2ヵ月の激しい泣きは、生得的なものではなく、生後の生活環境に何か要因があると考えざるを得ません。

私は一つ仮説を立ててみました。「生後2ヵ月の激しい泣きは、赤ん坊の脳の成熟と関係しているのではないか?」という仮説です。すなわち「刺激量の多さに、赤ん坊の脳の処理能力が追いつかず、そのため脳が異常に疲労してしまい、その疲労を処理しようともがき苦しんでいる姿が、激しい泣きとして現象しているのではないか?」というものです。

現に、一部の母親たちは、生後2ヵ月頃、赤ん坊を家の外に連れ出すと、しばしば赤ん坊が眠ってしまうことに気づいています。もしかすると赤ん坊たちは、外出にともなう過剰な刺激を、眠ることで遮断しようとしているのかもしれません。

脳の成熟は、概念や言葉を用いた思考の成熟と大いに関わっているだろうと考えられます。生後、赤ん坊は親たちとの関わりを介して、徐々に言葉や概念、あるいはそれらの前段階の準言葉や準概念を習得して行きます。体験を既得の概念や言葉で整理整頓して行くなかで、困ったときの対処法もいろいろと身につけて行きます。こうした対処法を身につける手前の生後2ヵ月段階で、赤ん坊の激しい泣きがあるのではないかと思うのですが、この仮説は有効かどうか。ちなみに私は、子供の夜泣きも脳の成熟、すなわち概念や言葉の習得とも関係しているだろうと考えています。いつか機会があれば、このこともお話しさせていただきたいと思います。

ともあれ、これだけは世の親たち大人たちに訴えたいところです。――赤ん坊の激しい泣きや夜泣きは、親の子育てが不適切だからではありません。たぶん赤ん坊の脳の成熟が、環境に追いついていないだけの理由からなのです。だから、どうか赤ん坊を激しく揺さぶらないで下さい。

2011年4月13日 (水)

女が真に求めるものは何か?――『アーサー王伝説』より

ここで紹介することは、P.Y.エイゼンドラスというアメリカの女性治療者が紹介したものです。困ったことにその元の本が私の手元にありません。そのため、私のかすかな記憶を頼りに紹介させていただきます。

『アーサー王伝説』にはさまざまな物語が組み込まれていますが、そのなかに、「騎士ガーウェインとラグニル姫」という話があります。物語はこうです。

あるときアーサー王は一人で狩に出かけ、獲物の雌鹿を追って森に分け入っていきます。やっと鹿をしとめたと思ったアーサー王の目の前に、突然グローマーと名乗る大男が現れます。

「お前はいったいだれに断って、おれ様の領地で狩なんぞをしている! しかも大事なおれの鹿をお前は殺してしまった。こうなったら、お前の命であがなってもらうしかないな!」

アーサー王はあわてて謝罪しますが、グローマーの怒りはおさまりません。やむなくアーサー王は覚悟を決めます。

するとどういうわけか、グローマーの態度がやわらぎ、殺す前に一度だけなら生き延びるチャンスを与えてやらないでもないと言います。どういうチャンスなのでしょうか? グローマーは言います。

「女が真に求めているものは何か? その答えを一年後のこの日、この場へ持って来い。その答えがあっていれば、お前の罪は許してやろう。だが、もし違っていれば、それがお前の最期のときだ」

命からがら城に帰ってきたアーサー王の様子がただならぬのを、第一の騎士ガーウェインが気づきます。アーサー王から事情を聞いたガーウェインは、こう忠言します。

「王よ、ご安心ください。きょうから国中にお触れを出し、女が真に求めるものを一年もかけて集めれば、そのなかに必ずやひとつやふたつ正解があるはずですから」

さて約束の一年が迫ったある日、アーサー王は家来たちが集めた膨大な解答集を手に、森に分け入っていきます。

するとそこへ、いかにも醜い小柄な老婆が現れ、自分の名はラグニルだと名乗ります。そして自分だけがアーサー王が探している答えを知っていると言い切ります。答えを教えてやってもいいが、条件がひとつある、と言います。アーサー王が条件を聞くと、騎士ガーウェインと自分との婚姻を認めることだと言います。アーサー王が、たとえ王といえども、騎士の婚姻を自分の一存で決めることはできない、と答えますと、ラグニルは、ガーウェインにこのことを取り次ぐだけでいい、と言います。アーサー王はそれなら了解したということでラグニルから答えを聞きます。

アーサー王としては、手元に一年かけて集めた答えがあるのだから、ラグニルのくれた答えを使うようなことはないはずだ、という思惑があります。

さて約束の場所にやって来たアーサー王は、大男グローマーに、国中から一年かけて集めた答えをひとつひとつ読み上げます。ところがグローマーは、それも違う、それも違う、と、ことごとく否定します。最後の答えにも首を横に振ったところで、グローマーが「さあ、覚悟しろ!」と迫ったところで、アーサー王はやむなく、ラグニルから教えられた答えを口にします。

「女が真に求めているもの。それは、自分の人生を自分で決める権利だ」

この答えを聞いたグローマーは烈火のごとく怒ります。「おまえは、その答えをラグニルから教わったな!」

でも約束は約束なので、グローマーはそのままアーサー王を自由にします。

こうしてアーサー王は醜い老婆のラグニルとともに城に戻ってきます。無事戻ってきたアーサー王のもとに騎士ガーウェインがだれよりも喜んで駆け寄ってきます。でもこのときもアーサー王は元気がありません。

そのわけを聞いた騎士ガーウェインは、即座に答えます。「王よ、わかりました。王のためとなるなら、わたしはたとえ相手がヒキガエルでも、喜んで結婚しましょう」

こうして騎士ガーウェインとラグニルとの結婚の宴が催されることになりました。城の一同が沈うつな思いのなかで、ひとりラグニルだけが醜い姿ではしゃぎまわっています。

宴も終わり、いよいよ新婚初夜。二人きりになったところで、かの醜い老婆ラグニルが、なんと、美しい姫に姿を変えます。

「ガーウェイン様。よくぞわたくしとの婚姻をお引き受けくださいました。この今の姿がわたくしの本来の姿で、名もラグニル姫と申します。かの乱暴者の大男グローマーはわたしの兄で、わたしは兄に魔法をかけられたせいであのような醜い姿になっていたのでございます。でもガーウェイン様がご自身の意思でわたくしとの婚姻を承諾してくださったおかげで、わたしにかけられていた魔法がとけました」

「でも、ガーウェイン様、魔法はまだ半分しかとけておりません。と申しますのも、わたくしは一日じゅうこの美しい本来の姿ですごすことはできません。昼間この美しい姿ですごし、夜醜い老婆の姿でガーウェイン様と床をともにするか、逆に昼間醜い老婆の姿ですごし、夜この美しい姫の姿でガーウェイン様と床をともにするか、どちらかしかできません。」

「さて、ガーウェイン様は、どちらをお望みでしょうか? どちらがいいか、ガーウェイン様がお決めくださいませ。ガーウェイン様、よくよく注意してお決めください」

――さて、皆さんならどちらをお選びになりますか?

ラグニルの話を聞いたガーウェインは、にこりとするや、すぐに答えました。

「ラグニル様。それはあなた自身の生き方の選択ですから、あなた自身でお決めください」

ガーウェインの言葉をきいて、ラグニルの顔もパッと輝きました。

「ガーウェイン様、おみごとです。その言葉で、わたくしにかけられていたすべての魔法が解けました。これで、わたくしは昼も夜も、このうつくしいラグニル姫の姿でガーウェイン様とともにすごすことができます。

騎士ガーウェインとラグニル姫は、末永く幸せに暮らしていったとのことです。(おわり)

2011年3月21日 (月)

うらみと和解の心理学

1.うらみの心理学

誰かに傷つけられたとき、一般に人はその相手をうらみます。ところが、恨むという行為は、憎い相手に両手でしっかりしがみつくことでもあります。

「あいつのせいでこんなに苦しい」「あいつがひとこと謝ってくれさえすれば許してやれるし、自分も楽になれるのに、あいつが謝らないから許してやらない!」と。

自分の人生が苦しみから解放されるのか、逆に苦しいままつづくのか、その決定を、憎い相手の動向に委ねてしまっています。

こんなふうに両手で相手にしがみつくことを、私は《依存》と呼びます。その意味ではうらみつづけることは、自分の人生の決定権・主導権を、最も憎い相手に明け渡すことでもあり、きわめて依存的な生き方をみずから選ぶということです。

苦しみを解消しようとして、人はときに復讐をはかります。しかもしばしばお門違いな相手に。悲惨な例は多々あります。たとえば池田小学校無差別殺傷事件(2001年)、秋葉原無差別殺傷事件(2008年)は大々的に報道された一例です。

2.暴力の心理学

うらみがそうであるように、暴力的復讐も、じつは相手への無自覚な依存にほかなりません。

あらためて暴力とは何でしょうか?「暴力」と聞くと、まずはなぐる・けるといった場面が思い浮かぶかと思いますが、じつはなぐる・けるは暴力の手段であって、暴力の目的は別のところにあります。暴力の目的は、「痛い目に合いたくなかったら黙っておれのいうことをきけ!」と、拒否や反論を許さない関係を相手に一方的に強い、相手の主体性を奪うところにあります。

暴力とは「承認の一方的な強要」であり、「お母さん、ぼくのいうこと聞いてね」と、親におねだりする依存的な子どもと本質的に同じです。

3.和解の心理学

親や友人たちへのうらみにとらわれ苦しんでいるクライアントに、私はときおりこんなたとえ話をします。

――あなたが道を歩いていて、大きな石にけつまずいてころんだとします。あなたは余りの痛さに、ついその大石に怒りをぶつけたくなるかもしれません。でもすぐに、「こんな石に怒りをぶつけてもしょうがないか」と、断念することでしょう。

――さて、あなたがけつまずいたのが「石」でなく、大きな「石頭」だったとします。その石頭にいくら謝罪を要求しても仕方ないことがあなたは重々わかっています。さあそうなると、「決して謝らない石頭」が悪いのか、「決して謝ることのない相手に、謝罪をしつこく要求している自分」が悪いのか、ということになります。

――永遠に石頭に謝罪を要求しつづける人生を選ぶのか。それとも謝らない相手にしがみついている自分を省みて、あきらめ、許すことで自分を解き放ち、あなた自身の人生の主導権を取り戻すのか。

いかがでしょうか? いま私がお話したことをジブリの宮崎駿監督が簡潔に語っています。

「恨むことで人生に挫折しない。恨んでいる相手に自分の人生を委ねない。そんなことになると、人生は敗北だ」と。

2011年2月21日 (月)

おそうじ

※これは或るクライアントのブログに載っていた文章です。

 ご本人の了解をいただきましたので、転載させていただきます。

 ちなみに、この方のカウンセリングはすでに終結しております。(光元和憲)

                  * * * * * * * * * * * * * *

私にとって、カウンセリングは心のおそうじだ。
ごっちゃっごちゃになった、いろんな事をカウンセラーと共に紐解いていく。
そうすると、「あ、この時は哀しかったんだ」とか、

「哀しんでもよかったんだ」と、知ることができる。
一人でできそうだが、信頼できる人との共同作業だからこそ
掃除ができる。
ひとつひとつ、出してきては一緒にみてくれる。
そして、それを手放すか私が決める。
少しずつ、感じないようにしていたり、大したことないと
思っていた気持ちを、「あー、あの時嫌だったんだ」とみてあげる。

先生は、「名前をつけてあげる」といっていたっけ。
私のそうじも少しずつ進み、自分の気持ちを自分でみることが
少しずつできつつあるのかな。
以前、カウンセリングの時、またもや突然
「私、最低なんです。みんな必ずいいとこあるのに、
やっぱり根っこが最低な人間っているんです」と言った。
そうすると先生は、「あなたが最低だと思ってる部分を
一緒にみる覚悟はできてるよ」と言った。
私はひとしきり泣いた。
心の掃除から、随分なところまできてしまった。
一緒のところに立ってくれる存在の大きさってよくわかんないけど、すごい。
結局、先生に私が最低と思う所を話したわけではない。
そういう自分のイメージだったわけだ。
掃除の共同作業もあと少しだ。

2011年2月16日 (水)

犬の絵皿――ひかりちゃん・のぞみちゃんとお母さんの対話

1.朝のお手伝い

朝です。朝いちばんに目を覚ますのは、いつもお母さんです。二番目に目を覚ますのは、妹ののぞみちゃんです。姉のひかりちゃんとお父さんはいつもお寝坊さんで、まだ布団で寝ています。

のぞみちゃんは三歳。朝のトイレを済ますとすぐに、のぞみちゃんは、台所で朝食の支度をしているお母さんのもとにやって来ます。

「お母さん、お手伝いする!」

「はい。のぞみちゃん、ありがとう。お母さん、とっても助かるわ」

「うん!」

「では、みんなのお皿をテーブルに運んで下さい」

「うん!」

2.お約束

ふだんお母さんは子どもたちに、ひとつの約束を伝えています。

「朝いちばんに起きてお着替えも済ませた人に、お母さん、お皿を配るお手伝いをしてもらいます」と。

のぞみちゃんはお母さんのお手伝いをするのが大のお気に入りです。

お皿は四枚。おそろいの白地のお皿には、一枚ずつ違う動物の絵が描かれています。犬とライオン、そしてカバとキリンの四つの絵です。

のぞみちゃんはお気に入りの犬の絵皿を、何よりもまず自分の席の前に置きます。それが終わると、みんなのお皿を配ります。「これはお母さん。これはおねえちゃん。これはお父さん」

のぞみちゃんは満ち足りた表情で、それぞれの席の前に、一枚ずつ絵皿を置いていきます。

そんなことをしているうち、姉のひかりちゃんも起き出してきます。

ひかりちゃんは五歳。毎朝お母さんから、朝ごはんの前に着替えを済ませるようにといわれていますが、朝寝坊のひかりちゃんは、いつもパジャマ姿で、テーブルに就きます。じつはひかりちゃんも、お気に入りのお皿は、犬の絵皿です。いつも妹に先を越されてしまうので、犬の絵皿がどうしても自分のものになりません。

3.早起きしたひかりちゃん

あるときひかりちゃんはとっても頑張って、朝、早起きをしました。いつもと違って、起きるや否やすぐにパジャマから普段着への着替えも済ませました。でも残念なことに、この日も妹のほうが先に起き出していて、お皿当番はいつも通り、のぞみちゃんになってしまいました。

するとひかりちゃんは、妹からお皿を取り上げ、きょうは自分が早く起きたから自分が配るんだ、とわがままをいいます。お皿を奪われたのぞみちゃんは、ワンワン泣きながら、姉に、お皿を返せと訴えます。

「のぞみちゃんが、先に起きたのー!」

「ひかりちゃん、早く起きたから、お皿配るの!」

ひかりちゃんは、今日はどうしも自分がお皿当番をするといってゆずりません。そのうちひかりちゃんもワーワー泣き始めます。のぞみちゃんもひかりちゃんも大泣きするばかりで、容易にはおさまりそうにありません。

4.困り果てたお母さん

ただただ泣き続ける子どもたちを前にして、お母さんも困り果ててしまいました。ふたりの子どもを前にして、お母さんはふたりの性格の違いを感じました。のぞみちゃんは、自分と姉とを比較して、自分のほうが早く起きたと、関係を取り上げていますが、他方でひかりちゃんは、ふたりの比較という視点、関係という視点がなく、ともかく今朝、自分は早く起きて着替えも済ませたのだから自分に権利があると、自分の主張をするだけです。

たしかに約束上は、のぞみちゃんが正しい。でも他方で、今回頑張って早起きし、しかも着替えまで済ませたひかりちゃんの頑張りを認めてあげたい。ここで認めてやらず、「約束は約束だから、今朝もお皿配りはのぞみちゃんね」といってしまえば、ひかりちゃんの頑張りの芽を摘んでしまう結果になりかねません。

5.ひかりちゃんとお母さんの対話

ふたりの子どもそれぞれを、精いっぱい大事にしてやりたいという思いのなかで、お母さんが考えたことは、まずは泣きわめいているひかりちゃんを落ち着かせることでした。

とはいっても、泣きわめいているときのひかりちゃんに、外から親が何かいっても、ひかりちゃんには届きません。こんなときは、ひかりちゃん自身に考えさせるしかありません。怒りや悲しみといった感情は、いったん脇に置いて、論理的にひかりちゃんに考えさせるしかありません。

お母さんはひかりちゃんの手を取り、目をしっかり見つめて、語りかけました。

「ひかりちゃん、落ち着いて。ひかりちゃんが泣いていたら、お母さん、ひかりちゃんに協力してあげられないんだけど」

お母さんの言葉を聞いて、ひかりちゃんの泣き声がヒックヒックと、泣きべそ声に変わりました。

つぎにお母さんは、ひかりちゃんに、いつものお約束を思い出させました。

「ひかりちゃん、お約束はなんだっけ?」

ひかりちゃんは、泣きべそ声で答えます。「早く起きて、着替えた人がお皿を配る……」

「そうだよね。それで、今朝はどうだった?」

ひかりちゃんは沈黙です。お母さんが続けます。

「ひかりちゃん。たしかに今朝は、ひかりちゃんが早起きさんをして、お着替えも済ませ、と~っても頑張ったってこと、お母さん、よ~くわかってるわよ。でも、今朝、いちばんに早起きしたのは誰だっけ?」

ひかりちゃんは、ようやく口を開きました。「のぞみちゃん……」

「そうだよね。のぞみちゃんが早かったんだよね。だから、のぞみちゃんがいちばん早起きしてお着替えもして、だから今朝はお皿当番だということは認めてあげなくては、ね?」

「……」

「でも、今朝はひかりちゃん、頑張って早起きしたんだよね。だからお皿配りたいんだよね」

ひかりちゃんは黙ってうなづきます。

「だからね、ひかりちゃん。そういうときは、相手のことを認めて上げて、その上でお願いするのよ。『のぞみちゃん、今朝はお皿当番、ひかりちゃんにゆずってください』ってね。わかる? ひかりちゃん?」

ひかりちゃんがようやく口を開きます。「だって、のぞみちゃん、お皿、貸してくれないもん」

「そうね。お願いするのだから、それはのぞみちゃんが決めることだよね。そこは認めてあげなくては、ね。でも、頼んでみるしかないんだよね。『お皿当番、ゆずってください』ってね」

「うん」と、声にならずにひかりちゃんはうなずきます。

「ひかりちゃん、自分でのぞみちゃんにいえそう?」

「ウ~ン……」

「そう。だったらお母さん、ひかりちゃんのお手伝いをするわね。ひかりちゃんのお願いを、お母さんからのぞみちゃんに伝えるわね」

「うん」

6.のぞみちゃんとお母さんの対話

へたりこんでいたひかりちゃんはようやく立ち上がり、お母さんと一緒に、さっきから仁王立ちしていた妹のそばに近寄ります。

お母さんが口を開きます。「のぞみちゃん。お母さん、これから、ひかりちゃんのお願いを、のぞみちゃんにお話するわね」

のぞみちゃんは黙ってうなづきます。

「きょうはのぞみちゃんがいちばんに起きてきて、着替えも済ませたから、きょうはのぞみちゃんがお皿当番だよね」

「うん」

「のぞみちゃんがお皿配るんだよね。それは、お母さん、よーくわかってるわよ。でもね、今朝はおねえちゃん、と~っても頑張って朝早く起きて、着替えもしてね。だから今朝はお皿配りたいんだって。だからきょうだけ特別に、お皿配り、おねえちゃんにゆずってあげてくれるかなあ?」

のぞみちゃんは考えています。

お母さんはもう一押ししてみました。「のぞみちゃん、頑張ってお皿配りゆずってくれたら、お母さん、のぞみちゃんのこと、ギューッてしてあげる」

のぞみちゃんが答えました。「いいよ~」

ひかりちゃんは照れた表情を見せながら、妹に感謝のことばを伝えます。

「のぞみちゃん、ありがとう」

「いいよ~」

お母さんは約束どおり、のぞみちゃんをギューッとしてあげました。

7. 頑張ったひかりちゃん

ようやく念願かなってお皿を手にしたひかりちゃんがお皿を配るのを目にして、お母さんはびっくりしました。なんと、ひかりちゃんは、大好きな犬の絵皿を、妹の前に置いてやっているではありませんか。

のぞみちゃんも、これにはちょっと驚いたようすで、一瞬ことばにつまりましたが、すぐに気をとりなおしました。「お姉ちゃん、ありがとう」

「いいよ~」と、ひかりちゃんも返します。

同じくお母さんも一瞬ことばにつまっていましたが、気をとりなおしました。

「ひかりちゃん、ありがとう! ひかりちゃん、と~っても頑張ってくれたのね。お母さん、ひかりちゃんが、妹と、そして家族みんなのために頑張ってくれているのが、よ~くわかるわ。お母さん、ひかりちゃんに、家族みんなのために頑張ってくれて、いっぱい いっぱい、ありがとうっていうわね」

ひかりちゃんに、あのいつもの照れ笑いが、なおいっそう戻ってきました。

8.何が起こったのでしょうか?

それにしても、ひかりちゃんのなかで、いったい何が起こったのでしょうか?

第一に考えられることは、ひかりちゃんとしてはおそらく、お皿配りを譲ってくれた妹に、お返し・お礼の思いをこめて、犬の絵皿をプレゼントしたのでしょう。のぞみちゃんは、姉が自分に犬の絵皿を譲ってくれることをアテにして、お皿配りの役を姉に譲ったわけではありません。それどころかのぞみちゃんは、姉が犬の絵皿を自分に譲ってくれることは考えてもいなかったことでしょう。ですから、「おねえちゃんが犬の絵皿を譲ってくれなくても大丈夫」という覚悟が、のぞみちゃんにはあったことでしょう。

自分の主張が、いささか根拠薄弱であることに、ひかりちゃんは気づいていたようです。根拠薄弱な自分の言い分を認めてもらったお礼を、ひかりちゃんはそっと妹に返したのでしょう。今回、妹の覚悟に支えられて、ひかりちゃんは、一歩成長できたようです。

第二に、ひかりちゃんとしては、お皿配りを譲ってくれた妹に、犬の絵皿をお返しすることで、お母さんに認めてもらえるかもしれないという思惑もあったのかもしれません。だとしても、お母さんは、ひかりちゃんのおこないに対して、「妹のために、犬のお皿をゆずるなんて、ひかりちゃんはホントにいい子ね」と、ひかりちゃんをほめてはいません。

お母さんがしたのは、ひかりちゃんのしたおこないは「お母さんにほめてもらうためのおこない」ではなく、「家族みんなのために協力したおこない」というふうにくくることでした。

同じく、のぞみちゃんがお皿配りを姉に譲れたのも、たしかにお母さんが自分の言い分の正当性をずっと承認してくれていたことが、背景にあるに違いありません。お母さんがわかってくれているから、そしてお母さんが困っているのもわかるので、のぞみちゃんは、姉を、でなく、お母さんを、助けてあげようとしたのでしょう。

たとえそうだとしても、ここでも肝心なのは、「お母さんに認めてもらうためのおこない」や「お母さんにほめてもらうためのおこない」としてくくることではなく、「ひかりちゃんもふくめ、家族みんなのためにしたおこない」としてくくることでした。

「お母さんがほめてくれるからするおこない」ではなく、「(たとえお母さんがほめてくれなくても)わたしが家族みんなのためにするおこない」へと子どもたちを方向づけるところに、ねらいがあります。

2010年12月 2日 (木)

保育園の帰り道、ひかりちゃんとお母さんの対話から

頑張るひかりちゃん 

ひかりちゃんは4歳の女の子。3歳下に妹ののぞみちゃんがいます。二人は毎日、保育園に通っています。

保育園の行き帰り、妹ののぞみちゃんはお母さんが抱っこして歩きますが、ひかりちゃんはいつも自分で歩きます。

ある日の帰り道、ひかりちゃんはお母さんに、

「ひかりちゃん、きょうもおうちまで歩くからね!」

と元気よく言いました。

「ひかりちゃんありがとう。お母さん、とっても助かるわ」

と、お母さんも笑顔で答えます。

「うん!」

ひかりちゃんも明るくお母さんに返します。

でも、このときお母さんはひかりちゃんの声がちょっとばかり明るすぎる気がして、ひかりちゃんに尋ねてみました。

「ひかりちゃん、ホントはお母さんに抱っこしてほしいのを、我慢してくれているのかしらね?」

そのとたん、照れた表情を見せたひかりちゃんは、小さな声で、

「うん」

と答えました。

そんなひかりちゃんにお母さんはもういちど言いました。

「ひかりちゃんありがとう。お母さん、とっても助かるわ」

するとひかりちゃんももういちどはずんだ声で、

「うん!」

と答えました。

甘えとおねだり 

さて、読者のみなさん、おわかりでしょうか? このときひかりちゃんはお母さんに、とっても甘えることができたのです。

ひかりちゃんはお母さんに、「ホントはお母さんに抱っこしてほしいんだけどな」という気持ちを読みとってもらえました。これが「甘えられた」という体験なのです。

もしひかりちゃんがお母さんに、

「ねえ、お母さん。のぞみちゃんじゃなくて、ひかりちゃんを抱っこしてェ」

と言ったとすると、これは甘えたのではなく、おねだりしたことになります。

では、「甘え」と「おねだり」はどこが違うのでしょうか?

甘えは、自分の気持ちや願いを相手に読みとってもらえる・察してもらえる体験のことです。「わかってもらえた」という受身の体験が「甘えられた」という体験なのです。

しかし、おねだりは「わかってちょうだい!」という強引な要求であり、能動的な体験です。

たしかにひかりちゃんは現実にはお母さんに抱っこしてもらえませんが、でも、「抱っこしてほしい」という気持ちだけはお母さんにちゃんと読みとってもらえ、おかげでとても照れくさいほどにうれしくなりました。お母さんに自分の気持ちがわかってもらえていると思えると、ひかりちゃんは頑張れます。

甘えとおねだりの別れ道 

ひかりちゃんが頑張って歩いてくれているとき、お母さんはひかりちゃんに、「ひかりちゃん、ホントは抱っこしてほしいのを、我慢してくれているのかしらね?」と、ひかりちゃんの気持ちを読みとってあげました。だからこそ、ひかりちゃんの思いは「甘え」の段階でとどめることができました。

でも読みとってもらえない日々が積み重なっていくと、さすがのひかりちゃんも参ってきて、「ねえ、お母さん。のぞみちゃんじゃなくて、ひかりちゃんを抱っこしてェ」と「おねだり」が出てきたかもしれません。

おねだりをして抱っこしてもらえると、たしかにそれはそれでうれしいのですが、でも残念ながら、「抱っこしてほしい気持ちは読みとってもらえなかった」という思いが残ります。

つまりおねだりで満たされるのはほんのわずかで、じつは読みとってもらえなかった不満や、察してもらえなかったいらだちのほうが大きく残ってしまいます。

不満やいらだちが残ると、さらにおねだりを続けざるをえなくなります。そしてまた読みとってもらえない不満が残る……。そのくりかえしです。

あげくの果ては、

「お前はなんてわがままな子なの!」

と、親から責められることになりかねません。

甘えでとどめるのか? おねだりに移行させてしまうのか? そこに別れ道があります。

ほめることは支配すること 

もうひとつ。お母さんは、「自分で歩いてくれて、ひかりちゃんありがとう」と、ひかりちゃんに感謝はしていますが、けっしてひかりちゃんに「自分で歩いて、ひかりちゃんはいい子ね」とほめてはいません。

「感謝すること」と「ほめること」とは何が違うのでしょうか?

よく「子供はほめて育てよ」と言われますが、もしひかりちゃんのお母さんが、「自分で歩いて、ひかりちゃんはいい子ね」とほめたとすると、このほめ言葉の言外のメッセージは、「自分で歩かない子は悪い子よ」という意味合いを含んでしまいます。

ちょっと見えにくいのですが、そこには子供に対する親の側のおねだりが潜んでいます。

「ひかりちゃん、お母さんの言うことをきいてね」という、親から子供へのおねだりです。

おねだりはそもそも相手への依存ですが、じつは依存する形で、子供を牛耳り、支配しているのです。「お母さんの言うことをきかないのは許さないわよ!」という支配です。

親は子供たちをほめるという見せかけで、子供が自分の思惑に従うよう、「支配-被支配の関係」を作り出しているわけです。これは上下関係であり、縦の関係です。

協力への感謝 

お母さんは、「ひかりちゃんありがとう。お母さん、とっても助かるわ」と、感謝を伝えています。お母さんはひかりちゃんの何に感謝したのでしょうか?

お母さんが目を向けているのは、「ひかりちゃんがお母さんの言うことにおとなしく従ったこと」ではなく、「ひかりちゃんが家族みんなの生活を維持していくことに積極的に協力してくれたこと」、このことです。

家族みんなの生活維持に、ひかりちゃんも協力すれば、もちろんお母さんも協力しています。ひかりちゃんとお母さんのあいだには、「支配-被支配の関係」でなく、「ともに協力し合う関係」ができています。これは協力の関係であり、横の関係です。

もしかすると、ひかりちゃんの気持ちのなかに「お母さんにほめてもらいたい」という気持ちもあるかもしれません。

ですから、ここで親が「自分で歩いて、ひかりちゃんはいい子ね」とほめてしまうと、「お母さんにほめてもらうためにしたおこない」となってしまいます。

ここであえて親が「いい子ね」と返すのではなく、「協力してくれてありがとう」と返してやることで、「お母さんにほめてもらうためにしたおこない」ではなく、「家族みんなのために協力したおこない」になるのです。

そのことをお母さんはこっそりと、ひかりちゃんに伝えていますし、ひかりちゃんも幼いながらに、心のどこかでそのことを感じとっているかもしれません。

心のなかのお母さん 

ひかりちゃんはお母さんに自分の気持ちを読みとってもらえました。きっとお母さんは常日頃から、そのように心がけているのでしょう。

これを何度も何度もくりかえすうち、ひかりちゃんの心のなかに、「ひかりちゃんの気持ちを読みとってくれるお母さん」が住みついていきます。《心のなかにいるお母さん》です。

《心のなかにいるお母さん》が育ってくると、ひかりちゃんが「お母さんに抱っこしてほしいな」と心のなかで思うとき、必ずしもお母さんがひかりちゃんに声をかけなくても、《心のなかにいるお母さん》が代わりにひかりちゃんに声をかけてくれるようになります。

ですから、ひかりちゃんは心のなかでお母さんとおしゃべりすることになります。

「ひかりちゃん、ホントはお母さんに抱っこしてほしいのを、我慢してくれているのかしらね?」

と、《心のなかのお母さん》が話しかけます。

「うん」と、《心のなかのひかりちゃん》も、そっと答えます。

「ひかりちゃんありがとう。お母さん、とっても助かるわ」

と、《心のなかのお母さん》が笑顔で答えます。

「うん!」と、《心のなかのひかりちゃん》も明るく「お母さん」に返します。

ひかりちゃんは自分で自分の甘えを満たしています。このことがのちのちひかりちゃんの自立につながっていきます。

自立と孤立 

たっぷりとお母さんに甘えられているからこそ、のちのちひかりちゃんは自立していけることでしょう。

しかし、もしひかりちゃんが甘えられることが少なく、いつもダダッコをしておねだりばかりせざるをえないようだと、ひかりちゃんの心のなかに、ひかりちゃんを甘えさせてくれるお母さんが住みついてくれません。

そうなると、ひかりちゃんはなかなか自立できず、まわりの人におねだりを続ける、孤立した人になってしまいがちです。

健康な甘えは《自立》に導き、対人関係を豊かにし、人生も実り多きものにしてくれますが、不健康なおねだりは《孤立》へと導き、対人関係を混乱させ、人生が苦しく実りなきものにしてしまうようです。

――『ふくしのとも』(20073月号)原稿

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